楽しさについて考えてみた
子供の頃は成績が良かった。頭が良かった。運動ができた。人気者だった。
そんな言葉をときどき見かける。
決して、思い当たることがないわけではなく、私自身子供の頃の成績は非常に良かった。
しかし、最近思う。本当に上手くいっていたのは小学生の頃だけだったんじゃないだろうか。
上手くいっていたというのはしっくりきていたと言い換えてもいいかもしれない。
小学生の頃は自分の行動がどれもしっくりときていた。
友達との会話とか、普段の勉強とか、授業での発言とか。
ことごとくやりたいことをやっていた。何かするときは、自分が一番すんなり実行できるような方法を選んでいた。
あの感覚が時々懐かしくなる。
いつからか、自分の好きなように動けなくなっていた。
はじめは人間関係だろうか。
どうにも私は生々しい話が苦手で、誰と誰が付き合っているとかそういう話題にはとんと向いていなかった。
中学に進学するとそういう話題は必然的に増えるわけで、会話を苦痛に感じることの方が多くなった。
今ではだいぶましになったが、それでも根本的には変わっていない。今後も変わらないだろう。
勉強もそうだ。
単純に勉強すること自体が楽しかったはずなのに、いつからか、勉強を苦痛に感じることが多くなった。
好きだったものが苦痛になっていくあの感覚は、ゆっくりと心臓を締め付けられるようななんとも言えない類のストレスを感じる。
高校に上がったときには「もともと自分はそれらが好きではなかったのだ」と思うようになっていた。
そうでも思わないとやっていけなかった。
得意だったものが苦手になるのも耐え難いことだが、好きだったものを苦痛に感じるのはそれ以上だった。
まるで自分が自分であるための大切な領域が削り取られていくような、そんな感覚を覚えた。
最近になってよく考える。
本当に、会話が嫌いなのか?
本当に、勉強が嫌いなのか?
本当に、人前に立つことが嫌いなのか?
苦手な話題や、苦手な人がいるだけで話すこと自体は嫌いじゃない。むしろ、仲のいい相手とはいつまでも会話を続けられる。
勉強だって、内容が難しかったり、興味がなかったりするとついていけないが、気になることを自分で調べるときなんかは楽しい。難しい内容でも、面白く解説されている本を読むとのめり込んでしまうときもある。
人前での発表は嫌いだが、グループで受け答えをしたりするのはそれほど嫌いでもなかったりする。自分が完全に理解している事柄についての説明であれば楽しく感じるときだってある。
そもそも、自分の考えを晒すことが嫌いならブログなんてやろうと思わない。
子供の時の感覚は馬鹿にできないもので、あの頃楽しかったのなら、やはり楽しかった理由がある。
そして、それが今楽しくないのであれば、そうなる理由があるはずだ。
できるだけ楽しく生きていきたいと思う。
人にはそれぞれ努力を実現しやすい環境がある。
それは1人で黙々と打ち込んだり、仲間と一緒に頑張ったり、短期間に集中したり、長期間毎日こつこつと続けたり、人それぞれあるはずだ。
そして、私に必要なのは「楽しさ」だろう。
努力の対象がなんであれ、それを楽しいと思えないと頑張れない。
当たり前のことだけど、普段は忘れてしまっている。
仕事は楽しくないもので、それが普通なんだとそう思い込んでいる。
もっと、自分に正直になるべきなのかもしれない。
自分が進んで打ち込めるようなこと。
それは、例えばこのブログだったり、ゲームだったり、読書だったり、いろいろあるわけだけど。もっと自分を生かせるような。努力までの道筋がフラットになるような。気づいたら熱中していたってなるような。そんな毎日を過ごしていくためにも、真剣に考える時が近づいているような気がする。
いや、そう思い立った時点でその時は来ているのだろう。