好きなものについて考えてみた

いつからだろう。

自分が好きなものについて話すことを躊躇するようになったのは。

もう思い出せないくらい前のことだが、少なくとも小学校高学年のときにはすでにそうだったことだけは覚えている。

 

ある日、全校内でアンケートが行われた。何時に寝て何時に起きるかとか、好きな食べ物は何かとか、勉強はどれくらいしているかとか、内容は本当にいろいろで、その中に「好きなテレビ番組は何?」というものがあった。好きなアニメがあったのだけど、それを描くことを躊躇したことを今でも覚えている。

 

みんなはボカロを知っているだろうか? 一時期、千本桜とかが流行ったあれだ。私は今でもボカロが好きでよく新曲を漁っているが、ブームが一旦過ぎ去った感は否めない。

数いるボカロP(ボカロ曲を投稿する人)の一人、ピノキオピーの曲に「レアノ」という曲がある。

これを聞いた時「あぁ、本当にその通りだな」と思った。

私が大好きなものを他の人も好きだとは限らない。

それはひどく当たり前の事実で、私はそれをよくわかっていた。

自分が好きなものを見つけても「他の人が同じものを見た時どう思うだろう」と俯瞰していた。その結果、自分が好きなものを隠すようになったのだ。

 

自分の趣味が周囲とズレていないときはとても楽だった。

みんなポケモンが好きで、仮面ライダーが好きで、戦隊ヒーローものが好きで、カードゲームが好きで……好きなことについて話すのはとても楽しくて、居心地が良かった。

でも、時間が経つにつれて、みんな好きだったものはみんな好きじゃなくなっていった。

この前まではあんなにも熱をこめていたものを、子供っぽい、恥ずかしいと感じるようになって、私はそれに頷いて、でも頭の中ではまだ宝物たちは静かに息を続けていて、そんな宝物たちを心の暗室に閉じ込めるさまを私は内心吐きそうになりながら見つめていた。

 

そして暗室に仕舞い込まれた宝物たちは一つずつ色褪せて、ガラクタへと姿を変えていった。一部は今でも輝きを放っているけど、その多くは失われてしまった。

仕方ないのだろうと思う。でも、それを仕方ないと思ってしまうことが衝撃だった。衝撃を受けないことが衝撃だった。

 

私の持つ宝石箱はたぶん私が思っている以上に小さいくて、新しい宝物を詰め込むたびに古くなったガラクタを無意識に捨てているのだろう。

せめてそれがまだ輝いているうちは、ちゃんと箱から取り出して楽しんでいたい。色んな人に見せてあげたい。一緒に楽しみたい。

 

それでも、やっぱり怖いのだ。

自分の持っている宝石を見せた時に「そんなのただの石ころじゃん」と言われてしまうのが。

人の価値観なんて気にせず、自分を貫いていけばいいとは思うけど、誰かにそれがただの石でしかないと指摘された時、それが本当になるのではないか、夢から覚めてしまうのではないかと思う自分は確かにいる。

 

だから、私は好きなもの話すことに躊躇してしまう。

 

このブログにはその時その時で自分が好きなことを書いているけど、何年も経った後、果たしてその時もそれを好きな自分でいられるのかわからない。自信が持てない。

 

それでも、私は確かにそれが好きだったこと、あの時の私には輝いて見えたこと、それだけは忘れたくない。