自分のダメさを認めるということ
「自分には才能が無いと認めることで楽になる」
そんな言葉を見かけたけど……本当にそうか?
どうにもその感覚はよくわからない。
自分には才能が無い、自分はダメだ、周囲よりも劣っている。
それを認めることはしたくないけれども、事実として認めざるをえない時というのはある。自分の失敗例、人の成功例、そういったものを突き付けられてそれでも「いや、おれは凄い」と言い切れるほど自分に自信がない。
で、失敗したり、周囲の凄さとか見せつけられた時、自分の至らなさとかそういうものを認めることになるわけですが……まったくもって気が楽にならない。
いや、もうほんとに。辛いだけ。
自分がダメだとわかってしまったら辛い。だって、ダメなんだもん。
「実は自分には凄い才能があった!」ってなったら嬉しいように、「実は才能が無かった」なんて辛いに決まっている。少なくとも自分はそうだ。
そこで冒頭のセリフを言った人はどうして「気が楽になる」と思うのか考えてみた。
才能がない
↓
だから、無理しなくていいい
だから、失敗してもしかたない
だから、助けてもらえばいい
みたいな。
才能が無いことを認め、その先の「だから」という部分を意識することで楽になったと言いたいのかもしれない。違うかもしれないけど。
そう考えれば少しは納得できる部分もでてくる。
でもだ。
才能があっても無理はしなくていいし、才能があっても失敗することはあるし、才能があっても一人でやる必要はない。
結局「だから」の後に続く言葉は、才能の有無に関係していない気もしてくる。
◆
じゃあ、どうして楽になるのか?
例えばこんなのはどうだろうか。
自分には才能が無い
↓
でも、才能がある人なんて一握りの存在だよね
↓
才能が無い人の方が世の中には多いから気にしなくてよし
うーん、なんかこれも違う気がする。
「才能の無さ」で落ち込んだ後「それが普通」と思うことで自分を慰めているわけだから。
これだと、楽になったのは「自分は普通だ」「よくある話だ」「大抵はこんなもん」という気の持ちようのおかげで「才能の無さ」はむしろ落ち込むきっかけに見える。そもそも才能があれば落ち込む必要もないだろうし。
もし、上記の考えを辿ってたのなら「才能が無いことを認めた」から楽になったわけじゃないように見える。「自分で自分を落ち着かせることができる」から楽になったんだ。
それが出来ない人はごまんといるだろう。自分がダメなことに気付いて、その鬱屈した感情を自分の中でどう処理すればいいのかわからない、そんな人は多いような気がする。
自分に才能が無いと気づいて、その上で「そんなことたいしたことないよな」「くよくよする必要ない」と思えるなら、それは素晴らしいことで、そういう考え方ができることこそがまさに才能だろう。それができるなら、自信を持っていいと思う。
◆
色々書きなぐっていたら、少し思いついた。
もしかしたら、客観的に自分を評価してそれを受け入れる事でようやく次のステップに進める的なことを言いたいのかもしれない。
なるほど、それは確かにあるかも。
彼を知り己を知れば百戦危うからずナンチャラカンチャラという言葉もあるわけだし。
自分には才能が無い、だからこういうアプローチをしなければいけない。
そういうプロセスを組み立てるには確かに自分を認める必要がある気がする。
そういう意味でなら納得はできる。
だが、それは「楽になる」というよりも「前進するのに必要なステップ」という感じが否めない。とはいえ、そういういちゃもんは野暮か。
結論
掃き溜めのようにだらだらと書いたわけだけど、結論らしい結論が出ない。
- 自分がダメだと認めるのは辛い
- それを認めて消化できる人は凄い
- でも認めなきゃ前には進めないよね
こんな感じだろうか。
こんなことを描いていたら、そもそも才能ってなんだろうという疑問が浮かんできた。
……え? 結論にすらなってないのに、疑問をぶつけて逃げるな?
…………はい、まったくもってその通りです。すいません。ではまた。